日常の食を備蓄すべし

食料の備蓄は長期の被災生活等を見据える場合に大変重要となる。水は川の水を煮沸するとか雨水を集めるとか何かしらの方法で得ることができるが、食料は現代社会においては食料がある場所から持ってくるか、狩猟採集に頼ることとなる。混乱し、流通が停止した社会で食料を提供し続ける能力を持つ個人や団体はほとんど無く、狩猟採集は確実性が低く、また経験の無いものには危険も多い。

そういった不確実な食料源を頼るよりも、まずは食料を備蓄しておくことが安定した生存につながっていく。しかも、長期を見据えた生存戦略を持つことが肝心である。

まずは日常的に食べている食品を見直そう。米は切れていないか、砂糖の予備はあるか、小麦粉は・・・。そうしてみていくと、普段使用している食品のなかには中長期的に保存ができるものが結構ある。穀物(米・小麦等)は古来より保存がきくゆえに主食として用いられてきた。また、乾麺の類や乾燥食品はそもそも常温で保存できるように乾燥させられたのである。缶詰は災害用と銘打たなくとも保存食であるし、レトルト食品もそこそこの賞味期限の長さがあり常温保存できるため災害時には役に立つ。こういった具合に一般的な食品が(安売りで大量購入した等の理由であっても)備蓄されていれば災害時に安心である。

一般的な食品の中で特に災害用として気をつけて備蓄しようとするならば、おすすめなのはインスタント麺である。栄養バランスがある程度取れており、また調理が楽で単品でおいしいという優れたパッケージのインスタント食品であると思う。

目の前にあって使えない水 あがけば何とかなる水

水は生命維持に欠かせないものであるが、その水がいつでも手に入るとは限らない。たとえば砂漠。一滴の水を得ることすら難儀するような土地であり水は大変貴重である。

そこまで水が無くとも実のところ、そのまま飲用できる水というのは案外少ないものである。ジャングルや川そばでも水が利用できないこともあるのである。

わかりやすいところから言うと、海水がある。海水を飲もうとすることは普通ないと思うが、海難事故などで水が手に入らない場合に海水に手を伸ばしてしまうということがあるらしい。渇水状態にあり朦朧としている人間に理性を求めるのも酷かもしれないが、海水を飲んでも渇きは癒えず、海水中の塩分濃度が高いがためにそれに対抗するためかより渇きにさいなまれるそうだ。

また、鉱毒などの毒が含まれている水も利用できない。工業排水で汚染されている土地においてはこれは利用するのに大きな勇気がいる。現代日本においてはさほど強烈な毒は工場から排出されていないが、国外に出れば、お隣の国などをみるに、そういった排水の影響を頭においておかなければならない。工場のほかに鉱山もそういった毒の排出源となりうる。こういった施設には排出の管理と浄化の設備があることが多いが、災害時に破壊されないとも限らない。また、工場等の人工物が原因でないこともある。一部の地域では地下に砒素が多く存在し、地下水は利用できない。また、火山などの周辺では硫酸などの物質が発生する。温泉街には魚の住まない(住めない)川が流れていたりするのだ。

他にも、そのまま飲用するにはリスクの高すぎる水もある。どぶ川の水をそのまま飲もうという人はあまりいないと思うが、そういった水は感染症のリスクがある。また、一見澄んでおり問題が無いように見える水でも、上流に動物の屍骸や糞尿等の汚染物があれば大変危険である。

もちろん、緊急時には比較的安全に見える水なら飲まざるをえない場合はあるのであるが、リスク回避は重要である。細菌のリスクは浄水器や浄水剤で回避可能であるのでそうするべきであるし、そういったものが無ければ加熱することで対処できるだろう(労力は相応にかかるが)。また、どうしても飲める水が無ければ、蒸留器を工夫することで飲める水を作り出す方法もある。途上国向けに太陽光を利用した蒸留器を開発した人がいるが、蒸留はたいていの水を飲用可能にする手法なのである。

他にも細かな水を集めて利用する方法もあるが、いまここでは語らない。日本においては少しばかり行けば川なり海なりが存在するからだ。そこにある水をまずどうにかして使うほうが労力は少ない。

サバイバルの知識とは何か

サバイバルの知識というものは、おおよその方は雪山のビバークや密林での遭難などの時に必要とされるような知識であると考えられていたかと思う。しかし、最近では東日本大震災があり、文明圏においても生存が厳しい状況に陥ることもあり、大災害の危機的状況に況に対処する方法を含めてサバイバルと認識されている方も増えているだろう。まさにその通りで、危機に瀕しての生命保護はサバイバルの第一目標である。多くの方の興味はこういった災害直後の生存戦略であるかと思う。

一方で、直近の危機を乗り越えた後に生命を存続させ続けることもまたサバイバルである。少ない物資の中で、効率よく安全に心身を健康に保つかという命題に挑み続けてきた人類の英知がすなわちサバイバルの知識であると思う。

サバイバルの知識はあり物を使って生活をよくするものであるということでもある。達人は着の身着のままで森にでても、まるで設備の整ったキャンプ場にフル装備でキャンプにいったかのように楽しみ、健康で活力に満ちたまま帰ってくる。しかもその間には様々な道具まで自作してしまう。

こういったことは、物事の本質を知っていないと難しいことだ。例えば危険な水と安全な水の違いは何か、どのようにしてその危険を除くかというのは細菌や原虫などの生物や有毒鉱物などの化学物質についての知識が必要である。こういったものは装備で補いうる場合が多いが(実際いままで数回紹介したものは知識が多くなくとも利用できるものだ)、知識があれば、そこらの自然物から対処するための道具や設備を自作する事ができるし、装備が機能しない場合でも対処できるようになる。

日常生活でも、サバイバルを見据えた知識は生活をよりよいものにするだろう。周囲の植物や動物に注意深くなり、豊かな自然の変化や小動物の存在に気づくだろう。また健康に気をつけるようになる。工作の技術やロープワークの知識は簡易に何かを作るときに役に立つ。きっちりとした知識は意外と広く応用が利くものだ。

つまるところ、どんなときでもよりよく生きるための知恵となりうるのがサバイバル知識ということができよう。